先日、紀伊半島の南端部へ出かけてきました。
もともとの目的は、数か月前に知って以来ずっと気になっていた「熊野にある美味しい店」を訪ねること。
冬の間は休業されていて、3月後半から営業再開と聞き、「引退して4月になったら、これは行かねば」と決めていたのです。
そして、4月のある日、いそいそと出発しました。
……ところが、今日の話はその店の話ではありません。
そのお店のご主人から教えていただき、予定を変更してまで行ってみたくなった、ある神社の話です。
それが、奈良県十津川村の玉置神社でした。
玉置神社は、標高1,076メートルの玉置山に鎮座し、古くから熊野三山の奥の院、そして修験道の重要な聖地として知られてきた場所です。
大峯奥駈道の重要な行場のひとつでもあり、2004年には「紀伊山地の霊場と参詣道」の一部として世界遺産にも登録されています。つまりここは、ただ“山奥の神社”なのではなく、長い祈りの歴史が幾層にも積み重なった場所なのです。
食事の最中、ご主人がふいにこう言われました。
「今回の旅行はウチがメインと伺いましたが、その後はどうされるんですか?」
「おそらく熊野の三神社に行かれるのかなと思ったんですが、もしよかったらの話ですが、私の超おすすめの場所があるんですよ」と。
それが玉置(たまき)神社でした。
おさぴーは、鈍感なようでいて、こういう“目に見えない気配”には妙に反応するところがあります。
話を聞いた瞬間に、「あ、これは出逢いだな」と思いました。
ホテルに戻ってから調べてみると、この神社、なかなかただ者ではありません。
「神様に呼ばれた人しかたどり着けない」
そんなふうに言われているのです。
予定外の用事が入ったり、車の故障、ナビの不調、悪天候、落石、通行止め――。
行こうとしても、なぜか行けない。
そんな話が、この神社には数多くあるらしい。
こういう話、眉唾だと笑う人もいるでしょう。
でも、山岳信仰の霊場として千年以上の歴史を持つ場所だと知ると、単なる都市伝説とも片づけにくい。実際、玉置山は修験者が往来した大峯奥駈道の重要地点で、十津川村側だけでも多くの“靡”が残る、祈りの濃い山です。
そう聞くと、「呼ばれた人しか行けない」という言葉も、妙に現実味を帯びてきます。
そうなると、もうダメですね。
ますます興味が湧いてしまいました。
翌日の予定を取りやめ、玉置神社へ向かうことにしました。
その夜は、翌日に備えて早く寝たのですが、妙な夢を見たり、夜中に何度か目が覚めたりで、どうも落ち着きません。
結局、予定より早く目が覚め、そのまま出発することにしました。
車にスーツケースを積み込み、山道に備えて悪路用の靴も用意し、いざ出発――
のはずが、ナビが起動しません。
画面は真っ黒。うんともすんとも言わない。
こんなこと、これまでなかった。
「おおっ、これか。
やっぱりおさぴーは呼ばれていないのか」
そう思いました。
エンジンを切って再起動したり、あれこれやっていたら、しばらくして何とか復活。
ひとまず胸をなで下ろしましたが、正直ちょっと怖い。
かなり辺鄙な場所へ行くのに、途中でナビが完全に沈黙したら、なかなかシャレになりません。
でもまあ、ここまで来たら行くしかない。
「その時はその時だ」と腹をくくって走り出しました。
ホテルからの距離は100キロちょっと。
ところが所要時間は4時間弱。
100キロで4時間。
数字だけでも「どういう道やねん」と思いますが、行ってみて納得しました。
途中までは普通です。
問題は、山裾に入ってから。
そこから先は、ひたすらぐねぐねの山道。
「落石注意」の看板は珍しくもなく、実際に道端にはいくつもの落石がある。
土砂崩れの復旧跡も何か所か見ました。
道は狭く、急勾配で、ところどころ「横を見たら崖」。
対向車が来たら、こちらが待たないとどうにもならない場所もある。
なるほど。
これはたしかに、“気軽に行ける神社”ではありません。
だからこそ、たどり着いたときの感じが違うのでしょう。
便利さの延長線上にある参拝ではなく、少し大げさに言えば、そこへ向かう道そのものがすでに試されているような感覚があるのです。
そんな道を越えて、ようやく玉置山の頂上付近へ。

無事に到着したときは、まず「呼ばれていなかったわけではなさそうだ」と、ほっとしました。
駐車場にはすでに十数台の車。
ナンバーを見ると、全国あちこちから来ています。
やっぱり皆さん、わざわざ来るのですね。
しかも、こんな山の上まで。
目の前には大きな鳥居。

いよいよです。
ここまで来られた喜びを感じながら、深呼吸をひとつ。
気持ちを整えて、鳥居をくぐりました。
そこから本殿までは、山の中の険しい参道を歩きます。
杉に囲まれたその道は、ごく普通の森のようですが空気がまるで違う。
玉置神社の境内には、神代杉をはじめとする巨杉群が残っています。

なかでも神代杉は樹齢3,000年ともいわれ、周囲8〜10メートル級、高さ30〜50メートルに達する杉もあるそうです。
しかも、標高1,000メートルを超える山上に、これほどの巨木群が残っているのは極めて珍しいとのこと。単に“木が大きい”のではなく、この場所が長く聖域として守られてきた証でもあります。
実際、その大杉の前に立つと、言葉がすっと消えます。

人間の時間なんて、本当に一瞬だなと思う。
自分が生まれるはるか前からそこに立ち、何百年、何千年という祈りや願いを、黙って聞いてきた木々。
そこに立っていると、こちらが見ているというより、
むしろこちらの方が見透かされているような気さえしてきます。
自然に手を合わせている自分がいました。
空を見上げる、杉を見上げる。
ただそれだけのことなのに、何とも言えない感覚があります。
それを「パワースポット」と呼べば簡単なのですが、少し違う。
元気をもらう、というより、自分の中の余計なものが静かに落ちていく感じです。


御朱印をいただき、せっかくここまで来たのだからと、ご祈祷もお願いしました。
時間帯のせいか、そのときのご祈祷はおさぴー一人。
何ともありがたい時間でした。
いま自分が置かれている状況――
店を引退し、人生の後半へ歩みを進めるこの時期に、何か導きをいただけたら。
そんな思いをお伝えすると、神職の方がこう言ってくださいました。
「わかりました。私が神様に精いっぱいその声をお届けしますので、あなたもその気でご祈祷ください」
こちらも背筋が伸びます。
久しぶりの正座で、途中から脚のほうはだいぶしんどかったですが、気持ちは不思議なくらい澄んでいました。
そして最後に、こんなお言葉をいただきました。
「しっかりとお取り次ぎしました。これからは、自分だけではなく、世のため人のためにも健気に生きてください」
これは、胸に残りました。
“立派に”でもなく、“大きく”でもなく、
健気に生きてください。
この言葉が、いまのおさぴーには妙にしっくりきたのです。
帰り道、心はとても軽くなっていました。
何かが劇的に変わったわけではないけれど、内側の余計な力みが、ひとつ抜けたような感じ。
不思議なお参りでした。
玉置神社は、「呼ばれた人しかたどり着けない」と言われます。
その真偽はわかりません。
でも実際に行ってみると、そう言いたくなる気持ちはよくわかります。
道の険しさ。
山の深さ。
空気の濃さ。
木々の過ごした時間の長さ。
そして、そこに立ったとき、自分の心に起きる静かな変化。
あれはたしかに、どこにでもある神社の参拝とは違いました。
おさぴーは、果たして呼ばれたのだろうか。
その答えはわかりません。
けれど少なくとも、あの日の自分には必要な場所だった。
それだけは、はっきり言える気がします。
とても長い文になってしまいました。
でも、何かお伝えしたい。
そんな気持ちで書きました。どなたかの参考にでもなれば幸いです。