おさぴーのシニアライフ実験室

無理せず、面白く。暮らしを愉しくする小さな実験記録。

大川小学校の校庭に立って思ったこと

 

先日、10数年来の学びの仲間である心友たちと、研修旅行に行ってきました。

研修旅行、と云いながら、実態は「美味しいものを食べ、関心のある場所へ行き、逢いたい人に会い、心に残る時間を過ごす旅」です。

今回の主目的は、塩竈にある、とても美味しいお寿司屋さんへ行くことでした。

着いたその日と、帰る間際の二回、伺いました。

もう、メッチャ美味しかった。

しかも、大将のお話を聴いているだけで「この旅、もう元は取れたな」と思えるほど、味だけでなく人としての厚みを感じるお店でした。

 

ただ、その話はまた後日。

今回、どうしても書いておきたいのは、その旅の中日に訪れた場所のことです。

 

それが、石巻市立大川小学校跡。

現在は、東日本大震災の震災遺構として保存されている場所です。

二泊三日で訪れた仙台。

お寿司屋さん以外は、特に予定を決めていませんでした。

そんななかで、中日にどこへ行こうかという話になったとき、おさぴーが、

「遠いけれど、できれば大川小学校跡へ行ってみたい」

と口にしました。

 

すると、心友たちはすぐに、

「それは行くべきところだね」

と言ってくれました。

 

旧 石巻市立大川小学校跡地

 

こういう仲間と一緒に行けたことは、本当にありがたかったです。

一人では、なかなか足が向かなかったかもしれません。

なぜなら、そこは観光地ではないですし、言葉にするのが難しいほど、重い場所です。

 

旧石巻市立大川小学校では、

2011年3月11日の東日本大震災で、全校児童108名のうち74名、そして教職員10名が津波によって犠牲になりました。

 

学校は海から数キロ内陸にありました。

それでも、津波は北上川を遡上し、校庭から避難を始めた児童や先生方を襲いました。

地震発生から津波到達までには、およそ50分の時間があったとされています。

その間、児童と教職員は校庭に集まり、点呼などを行いながら待機していました。

しかし、二次避難先が具体的に定められていなかったことや、津波の危険をどう判断するか、どこへ逃げるかという部分で時間が過ぎていったとされています。

 

震災遺構 大川小学校とその周辺

 

そして、津波が迫る直前になって、学校のすぐ裏にある山ではなく、北上川沿いの三角地帯と呼ばれる小高い場所の方へ移動を始めました。

その途中で、津波に呑まれてしまったのです。

 

このことは知識としては知っていました。

本でも読み、映像でも見ていました。

でも、実際にその場所に立つと、まったく違いました。

 

校庭に立ち、校舎を見て、裏手の山を見上げたとき、

胸の奥からどうしようもない思いがこみ上げてきました。

なぜ、ここに逃げられなかったのか。

なぜ、すぐそこにある高い場所へ向かわなかったのか。

なぜ、なぜ、なぜ。

 

もちろん、後から現地を訪れた者が、当時その場にいた方々を簡単に裁くことはできません。

災害の最中、人は冷静な判断ができるとは限りません。

大きな揺れ、混乱、情報の錯綜、責任の重さ。

その場にいた先生方も、きっと懸命に考えていたのだと思います。

 

だからこそ、単純に「なぜ逃げなかったのか」とだけ言って済ませてはいけない。

でも、それでもなお、思ってしまうのです。

命を守るためには、迷っている時間そのものが危険になることがあるのだ、と。

 

この出来事については、後に裁判でも争われました。

そして、最終的には、震災前からの学校側・行政側の防災体制、危機管理マニュアル、避難場所の想定などに不備があったとして、石巻市と宮城県の責任を認める判決が確定しています。

これは、単に「あの日の現場の判断ミス」だけの問題ではありません。

もっと前から、つまり平時から、何を想定し、どこへ逃げるのかを具体的に決め、訓練し、共有しておく必要があったということです。

ここが、とても重い。

 

危機管理というのは、何かが起きてから考えるものではないのですね。

起きる前に、どこまで嫌な想像ができるか。

そして、その嫌な想像を「縁起でもない」と片づけず、具体的な行動に落とし込めるか。

そこに命の分かれ目があるのだと感じました。

 

ちょうど私たちが到着したとき、

大川小学校でお子さまを亡くされた佐藤敏郎先生が、宮城県の新人教師研修の方々にお話をされていました。

私たちは正式な参加者ではありませんでしたが、少し離れたところで、そのお話を聴かせていただきました。

 

大川小学校跡地での新人教師講習会の様子

 

佐藤先生は、静かに、しかし深く訴えておられました。

起きてしまったことは戻せない。

だからこそ、これから一人ひとりが、どんな意識で防災に向き合うのか。

そのことを、自分のこととして考えてほしい。

そう受け取りました。

その言葉が、今も心に残っています。

 

大川小学校は、特別な場所になってしまいました。

でも、もともとは特別な場所ではありません。

子どもたちが笑い、遊び、学び、先生方が日々を重ねていた普通の学校でした。

その「普通の日常」の上に、突然、災害が来た。

 

これは大川小学校だけの話ではありません。

私たちの住む町にも、店にも、家にも、旅先にも、同じことが起こり得る。

災害は、こちらの都合を聞いてくれません。

「今日は心の準備ができていませんので、また今度にしてください」

そんなお願いは通じないのです。

 

校舎の裏からおよそ1分で津波から逃れられるところまで来られたのです

 

現地で、学校の裏手から山へ登る途中にあるコンクリートの広場に立ちました。

そこから校庭を見下ろしたとき、言葉が出ませんでした。

「ここまで来ていれば……」

そう思ってしまいました。

 

もちろん、たらればを言っても、失われた命は戻りません。

それは分かっています。

でも、たらればを単なる後悔で終わらせてはいけないとも思うのです。

たらればは、未来の命を守るための問いに変えなければならない。

もし、自分がその場にいたらどうするのか。

もし、自分の店で、お客さまがいるときに大きな災害が起きたらどうするのか。

もし、旅先で土地勘のない場所にいたら、まず何を確認するのか。

 

そう考えると、大川小学校で感じたことは、決して過去の悲劇ではありませんでした。

今を生きている私たちへの宿題でした。

人は、危機の場面で正常性バイアスにとらわれることがあります。

 

「まさか、ここまでは来ないだろう」

「今まで大丈夫だったのだから、今回も大丈夫だろう」

「誰かが判断してくれるだろう」

そう思っているうちに、取り返しのつかない時間が過ぎてしまう。

これは、防災だけでなく、仕事でも、暮らしでも、人生でも同じかもしれません。

 

危ないと感じたら、まず動く。

迷ったら、より安全な方を選ぶ。

空振りでもいい。

笑われてもいい。

命に関わることなら、過剰なくらいでちょうどいい。

大川小学校の校庭に立って、おさぴーはそう感じました。

 

 

今回、そこへ行ってよかったのかどうか、正直、軽々しくは言えません。

心は重くなりました。

楽しい旅の途中に、深く沈み込むような時間でもありました。

でも、行かなければ分からなかったことがありました。

本で読むのと、映像で見るのと、その場に立つのとでは、まるで違います。

 

校庭の広さ。

裏山との距離。

壊れた校舎の姿。

そこにかつて、子どもたちの日常があったという気配。

それらが一つになって、胸に迫ってきました。

 

震災後に発見されたこども達のランドセル(毎日新聞社の写真より)

 

大川小学校は、悲劇を見に行く場所ではないと思います。

命をどう守るのかを、自分に問い直す場所です。

そして、亡くなられた方々の無念を、未来の行動に変えるための場所です。

 

「即行動を取る」

言葉にすると簡単です。

でも、実際には難しい。

だからこそ、平時に考えておかなければならない。

どこへ逃げるのか。

誰が判断するのか。

判断が遅れたとき、自分はどう動くのか。

大川小学校の校庭で見た景色は、今もおさぴーの中に焼き付いて離れません。

楽しい旅の中で出会った、重く、けれど大切な学び。

この場所でいただいた宿題を、忘れずに持ち帰りたいと思います。

 

そして、読んでくださった方にも、ほんの少しでいいから考えていただけたらうれしいです。

「自分なら、どうするだろう」

その問いを持つことが、きっと防災の第一歩なのだと思います。

 

今朝も青森地方で大きな地震があったみたいで、被害の少ないことを祈らずにはいられません。

 

 

※この記事、早くアップしたかったのですが、このところ体調不良で出来ずにいました。

自分ではまだまだ若いつもりで、アチコチ出かけていたのですが、もう無理はきかない。

疲労が積み重なってきて、自己免疫力もそがれていく。

なにか悔しいのですが、そんな思いをいだいています。

先ずは体力の回復。

人って元気でないと「やる気」までしぼんでいくようです。

節制します。